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○山梨県

2022年4月29日 (金)

方鉛鉱(山梨県甲州市黄金沢鉱山)

Galena PbS 硫化鉱物

 

Galena_koganesawam_03

Galena_koganesawam_01

Galena_koganesawam_02

 

鉱山跡に行くと割と目にする機会の多い方鉛鉱です。劈開が完全で、割れた面が滑らかできれいな平面になります。立方体を基本とした形に割れやすいので、角がシャープで、とても見栄えがします。鉛の鉱物で比重も大きく、持つとずっしりしており、感触もなにやら特別感がありますね。鏡下では時に大伽藍のような姿を見せます。

この方鉛鉱は黄金沢鉱山の下のズリで採集したもの。上のズリのように洋紅石、ミメット鉱などの珍しいものはないけれど、ずっと広くて鉱石も多く、結構楽しいのですよね。そこらへんに落ちてる石を無造作に取り上げて割ると、大抵きらきらしてきれいだし。方鉛鉱、硫砒鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、孔雀石などが多いようです。最初、上のズリのことを知らなくて、何度か下のズリでいろいろさがしていました。

方鉛鉱は、古代からよく利用されていたために、採掘もされていたようです。その主な利用法は、鉛の鉱石として、さらに、銀の鉱石として、金銀の精錬用の鉱石として、使われていました。

鉛を含む鉱物は他にも白鉛鉱、青鉛鉱、緑鉛鉱、紅鉛鉱、褐鉛鉱などがありますが(色シリーズを並べてみましたw)、産出量はそれほど多くなく、紅鉛鉱にいたっては日本でまだ見つかったことはないのでは。その点、方鉛鉱はいろんな場所で簡単に大量に見つかりますので、鉛の鉱石といえばメインは方鉛鉱です(白、緑、硫酸鉛鉱などは鉱石として採掘されているところもあるようです)。大抵、閃亜鉛鉱も一緒にとれるので、鉛・亜鉛鉱床と一緒くたにして扱われることが多いです。

また、方鉛鉱には銀がごく少量含まれています。特に含有量が多い場合は、銀鉱石として採掘されていました。対馬では、自然銀を採りつくした後は、方鉛鉱を銀鉱石として採掘していたそうです。

さらに、金銀鉱石から金や銀を取り出す灰吹法で使用する鉛の材料としても使われていました。

灰吹法は、非常に古くからある金銀の抽出法で、ウルク文化(BC4000~3100年頃)後期の都市、現シリアのハブーバ・カビーラ南遺跡ですでに行われていた痕跡が残っているらしい。この現在知られているなかで世界最古の都市のひとつとも言われる遺跡は、古代メソポタミアのウルクとほぼ同時期の都市で、同所を手本として作られたとか(ウルクからユーフラテス川の上流約900kmのあたり)。方鉛鉱から銀が抽出された跡が見つかっているようです(近くに銀を多く含んだ方鉛鉱の産地がある)。(詳しく知りたい方は、小泉龍人『都市の起源』(講談社新書メチエ、2016)をどうそ。自分は読んでいないので、とりあえず「らしい」と紹介するしかできません)

日本では大分遅れて石見銀山で灰吹法が行われたのが最初とも、飛鳥時代にはすでにその痕跡があるとも、いろいろ話があるようですが、自分には判断する知識がありません。

いずれにせよ、方鉛鉱と人間のつきあいも、ずいぶんと長いみたいですね。

それにしてもメソポタからとはびっくり。最初にこういう方法を見つけ出した人は、一体どうやったのだろうと、いつも不思議に思います。最初に偶然そうなってしまってから考えたのか。方鉛鉱の割ったばかりの時の輝きを考えれば、どうにかしたら銀が生まれそうと考えるのは、まあ納得できるんですが。というか、そもそも、金や銀に高い価値が生じるという点からして、よく考えれば、それほど自明でもない気がするんですよね(それが当然である世界にいれば、特に不思議にも思いませんが)。だって、宝石は硬いからこそ価値があるとされているのに、金銀は柔らかいですし。。。

知識の発展、技術の開発も大事だけれども、人間にとって一番影響が大きいのは、金銀には価値があるという「価値観」を生みだしたパラダイム創成であるのかもしれません。(「パラダイム」という言葉はあまり使いたくないのだけれど)

 

資料:
冶金の曙」http://homepage1.canvas.ne.jp/e_kamasai/Metallurgy/yakin/index.html
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構自然起源放射性物質データベース」https://www.nirs.qst.go.jp/db/anzendb/NORMDB/1_datasyousai.php

 

2022年4月 6日 (水)

透閃石?(山梨県南巨摩郡身延町本栖湖周辺)

透閃石 Tremolite ☐Ca2(Mg5.0-4.5Fe2+0.0-0.5)Si8O22(OH)2 珪酸塩鉱物
緑閃石 Actinolite □Ca2(Mg4.5-2.5Fe2+0.5-2.5)Si8O22(OH)2 珪酸塩鉱物

 

Tremolite_motosu_01

Tremolite_motosu_02

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透閃石とか緑閃石とか、その類ではないかと思うんですが、まあはっきりとはわかりません。

あんまり緑っぽくないし、以前緑閃石は書いたことがあるし、透閃石にしたいかな? まあそうかもしれないことにしとこうかな? 的な。でもきらきらとした繊維状の様子は、なかなか立派です(小さいですが)。酸化して茶色くなってしまっていますが、それもまた趣きがある。

鉄分が少ないと透閃石、鉄分の量が増えると緑閃石になりますが、当然これは分析しないとわかりません。茶色に錆びているところを見ると、これは鉄分が多いのだろうか。だとしたら緑閃石としたほうがいいのかもしれませんが。。。まあいいやw

採集したのは、本栖湖畔・川尻鉱山そばの沢を少し上流に登ったあたり。これがついていた石は黒く緻密でかちかちに硬く、泥質ホルンフェルスのような感じ。鉱山のズリ跡、坑道付近ではまったく見かけない石です。沢では、鉱山産の鉱石様の石は一切見られません。地質図を見ると、「海成層 泥岩 前期中新世後期-中期中新世付加体」とのことなので、多分泥岩が変成されたものなのでしょうか。鉱山跡はすぐそばですが、玄武岩質となっていて、ちょうど地質の境界になっているみたいです。

泥質のホルンフェルスには、菫青石、紅柱石、珪線石などがよく見られるそうです。変成の温度、圧力によって、生み出される鉱物が変わってきます。この石も拡大すると、きらきらした結晶が表面にいっぱい見えますが、なんなのかよくわかりません。とても柔らかいところを見ると、上記の鉱物ではなさそうですが。。。

他にも、黄鉄鉱か黄銅鉱らしき、きれいな円形皮膜状にへばりついた金属光沢の部分も見えます。これは一体どうやって生成されたのだろう。場所によっては多分黄銅鉱が酸化したのか、鮮やかな紫や青に光っているところもあって、にぎやかな石です。

 

Pyrite_motosu_02

 

鉱山跡などから鉱物を探すのがまあ一般的なのでしょうが、個人的には、鉱山というわけではないごく普通の山の沢の石から面白い鉱物を見つけるほうが好きです。なんということもない粒子状ほどの小ささの結晶でも(たとえそれが黄鉄鉱とかごくありふれたものであっても)、思わぬところから見つける方が意外性があって、楽しいです。でもここではこれが産出する、という情報がないので、同定するのが難しいのが困るのですよねぇ。。。

やはり鉱山というのは人為的なもので、それはそれで面白いし楽しみ方も大きいのですが、人の手によらず風雨で山が崩れて沢になり、岩が露出してそこから自然に珍しい鉱物が顔を出す。。。というほうが、自分の好みということなのでしょう。別に変らないだろうと言われても、好みなのでいかんともしがたいのですw 鉱山というのは山を深く掘り、傷つけるものですからね。山の神さまを傷つけているような気もして、いまいち気持ちがもやもやする感じ。

沢には、山の侵食物がすべて集まります。基本的に、沢で石を探すのですが、ポイントがよく分からない時には、上流に向かって遡りながら、分岐ごとに石を調べて追っていったりすることもあります。

現在では堰堤のない沢などほぼ存在しないので、なかなかうまく追っていけないことも多いのですが、この堰堤そのものも、なかなか面白いのですよね。びっくりするような険しいところにも、いろんな堰が作られていて、びっくりします。時代もさまざまだし、石積み、木製、石と木の合わせ技、スリットダム(スリットで、大きな岩だけをせき止める)など、その種類の多さには目を見張るものがあります。ダムを見て回る趣味というのもありますが(ダムカードとかありますよね)、堰堤というのも、そういう対象に十分なりうるものだと思います。

台風などによる土石流の防止機能を担う重要な施設というだけでなく、土砂流出しなくなることによる川原や海浜の消失というような面など、自然と人間の活動のバランスの難しさを感じさせるという点でも、もっと注目されてもよいのではないかと思います。

石に飽きたら、堰堤の写真でも撮って回るのも面白いかなw

 

2022年1月 2日 (日)

硫カドミウム鉱(山梨県南巨摩郡身延町川尻鉱山)

Greenockite CdS 硫化鉱物

 

Greenockite_motosu_01

 

本栖湖畔、川尻鉱山の、硫カドミウム鉱ではないかと思います。光沢のある黒い部分は、閃亜鉛鉱かな?

試しに長波UVで川尻鉱山の鉱石を照らしていたら、強く黄色~オレンジに光る部分があり、これは何だろうということで気づきました。下の写真は、その様子。

 

Greenockite_motosu_02

 

鮮やかな黄色の、土状集合。まれに六方晶系の結晶になるそうですが、その形態は滅多に見られないようです(肉眼で確認できる大きさの結晶になると、赤くなるらしい)。ウルツ鉱の仲間で、理想的な結晶形は六角錘のような形で、両端の形が違う異極晶。

写真の部分を硫カドミウム鉱ではないかと考えたのは、そのカドミウムイエローの色と、閃亜鉛鉱の二次鉱物として産するというところから。川尻鉱山では、閃亜鉛鉱も採掘していたそうで、実際、拾った鉱石にも閃亜鉛鉱が多く見られました(閃亜鉛鉱にはごく微量のカドミウムが必ず含まれているそうです)。あと、黄色からオレンジ、赤に蛍光するとの記載もネット上でいくつか見られたので、硫カドミウム鉱としました。でも、デジタル鉱物図鑑やmindat.orgでは、蛍光についての記載はありません。亜鉛が含まれていると蛍光する? はっきりとはわかりません(硫化亜鉛カドミウムは蛍光・燐光するとのこと)。

硫化カドミウムは着色力が強く、絵の具、ゴム、樹脂、ガラス、陶磁器などの黄色の染料としても使われます。その黄色は、絵の具ではカドミウムイエローと呼ばれます。写真の鮮やかな黄色を見ればその美しさがわかりますね。他に替えようのない色ですが、カドミウムの毒性が高いため、その使用は最近では忌避されるようになってきました。

日本ではカドミウムといえば、まっさきに「イタイイタイ病」が連想されると思います。自分もそうでした。

イタイイタイ病は神岡鉱山からの廃水によって、神通川下流域の富山を中心に発生した病気で、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそくと並んで、戦後の高度成長期日本において発生した四大公害病のひとつです。神岡鉱山は亜鉛(閃亜鉛鉱)を中心に採掘していた鉱山ですので、その精錬の過程で大量のカドミウムが発生したということでしょうか。

閃亜鉛鉱は割と普通にどこでも産出する鉱物ですので、カドミウムは全国の河川に流れ込んでいると思いますが、閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムは非常にわずかな量ですので、上流で大量のズリが常に流れ落ちているような場所でもない限り、問題となるようなものではないようです。

日本ではカドミウムの摂取量はかなり多く、その原因は主食がお米だからです(逆に言えば、お米以外からの摂取量は問題にならないということ)。水田に蓄積されやすいということのようですが、現在では食の多様化が進み、お米の摂取量の割合が減るとともに、カドミウムの摂取量も減ってきているとか(厚生労働省「「食品に含まれるカドミウム」に関するQ&A」)。

 

19世紀初頭のフランスで、絵の具のクロムイエロー(黄鉛:クロム酸鉛PbCrO4)が、若干遅れてカドミウムイエローが開発・発売され始めました。ゴッホの「ひまわり」の黄色はクロムイエローだとか。クロムイエローに比べてカドミウムイエローは高価で、色が変質しづらいということで、徐々に広まっていきました。

有名画家で最初にカドミウムイエローを使ったひとりが、モネ。モネをはじめ、印象派の画家たちのお気に入りの色のひとつだったそうですが、現在はその毒性の強さから、純粋な硫化カドミウムから作られたカドミウムイエロー(Pigment Yellow 37)は、日本でしか製造されていません。代替品(Pigment Yellow 35)では、その色は出せない、唯一無二の色です。

画家にとって、「色」とは命そのものでしょう。自分がもっとも関わりたくない本は、画集でした。印刷では絵画の色を再現することは不可能で(お金に糸目をつけなければ、近づけていくことはできるでしょうけど)、でも、画家は色をできる限り近づけたい。日本画であれば絵の具として貝殻やら鉱物の粉末をそのまま使うことも多く、CMYKだけでは近づけることもできないので、金やら銀を使わなければなりません。画集(特に画家が校正を見る場合)を作るうえで一番大変なのは、画家にいかに色の再現を諦めてもらうかです。それだけ、絵画にとって色は本質なのですね。

毒があるとかそんなのは、好きな色を使えないことと比べたら、まったく些細なことなんでしょう。音楽であれば、自分が思ったのと違う音で聞かれたり、自分が思った音が使えないのは、我慢ならないことですからね。その気持ちは、多分作者以外にはわからないと思います。その程度の違いなんて見たり聞いたりする人にはわからないよなんて言っちゃだめですよ。その違いが作者には何よりも大事だということだってあるんだから。作者にとって、表現において毒程度のリスクはリスクになりません。それは、今、自分が硫カドミウム鉱が毒だからといって、採集したりいじったり写真にとったりするのを控えたりしないのも同じことですね。

 

2021年12月26日 (日)

磁硫鉄鉱(山梨県甲州市門井沢)

Pyrrhotite Fe7S8 硫化鉱物

 

Pyrrhotite_kadoisawa_01

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大月から甲州街道の笹子峠を越えると、大菩薩嶺から流れる日川流域に入ります。門井沢が日川に合流するあたりは、武田勝頼の最後の戦場であり(鳥居畑)、甲斐武田氏の終焉の地です。徳川家康が勝頼の死を弔うために建立した景徳院があります。

門井沢沿いの林道を遡り、林道が終わるあたりで沢に下りると、白い珪灰石が転々としています。その石を割ると、たまに見つかる金属光沢の部分が、この磁硫鉄鉱。名前のとおり、若干磁石に反応します(かなり弱弱しい感じ)。六角形のきれいな結晶みたいのは見つかりませんでしたが(ここにあるのかどうかもわかりませんけど)、拡大すると、薄い板状の結晶が積み重なっているのが見えます。

一見すると雲母のように完全な劈開があるようにも見えるけれど、そういうわけではなく、分子が結合していない個別の板状の結晶が積み重なってるだけということなのでしょうか、原子配列に由来する割れ方である劈開は「なし」とのこと。でも、デジタル鉱物図鑑の磁硫鉄鉱の項では、「劈開:明瞭」となっていますね。。。

水晶なども、劈開なしとするものと、不明瞭とするものがあります。「劈開」というのは、結構あやふやな概念なのか。「なんとなく」を甘受しなければならない概念ということなんでしょうか。まあそれはそれで自分は受け入れるのはたやすい性格ではありますが。

鉱物には他に「裂開」という言葉もあって、不純物、構造の欠陥、双晶などの影響で特定の方向に割れることを言います。でも、裂開と劈開の違いを実際に実験して確かめるとすると、実験対象がすべて破壊されてしまうということに。。。

磁硫鉄鉱といえば、そのもっとも大きな特徴は、やはり磁性ですね。鉱物では磁性をもつものはそんなに多くなく、結構珍しい性質です。強磁性を示す鉱物は、鉄、ニッケル、コバルトなどの元素を含む一部の鉱物に限られます。

磁硫鉄鉱の磁性は、Sに対するFeの量で変わってくるそうです。FeSのものはトロイライトといい、磁性がなく、隕石中で見つかっていますが、地球上ではめったに見られないとか。Fe11S12~Fe9S10のものは(擬)六方晶系、Fe7S8組成のものは単斜晶系になるといいますが、見てわかるようなものではないでしょう。

 

甲州街道から笹子トンネルを抜けると、すぐ道の駅・甲斐大和があります。地形図だと、ここから裏道で門井沢の林道につながっているように描かれていますが、今ではもう道はありません。沢までは踏み跡が残っていますが、橋などはなく、沢を渡渉して林道まで斜面をよじ登ることになります。

林道を歩いていたら、すぐそばの草むらの中からいきなり軽く1mを超えるでっかい猪が飛び出てきて、すごい勢いで逃げ去っていきました。危なかった、もしこっちに向かってきてたら、ちょっとやばかった。。。住宅のあるあたりからそんなに離れていない場所だったんですが。

ここ最近数年、山で大型哺乳動物を見かけることが多くなりました。特に多くなったと感じるのは、カモシカ。以前はそんなこと全然なかったんですが、人のほとんどいかないようなところだけでなく、人の多い登山道付近でも最近はちょくちょく見かけます。カモシカは狩猟の対象になることがないので(天然記念物なので。でも牛だから食べるとおいしいらしい)、明らかになめくさってますねw 他の大型動物たちは、山の中で追われまくるのに、なぜカモシカだけ。。。と大変な不条理を感じていることでしょう。多分かなり数が増えているんじゃないかなぁ。あんまり増えすぎちゃうと、キミらも下手するとやばいかもよ、気をつけてね。

でもカモシカも鹿柵だらけの山では住みにくいでしょう。鹿柵の是非についてはいろいろ言いたいことは沢山あるのですが、ここでひとつだけ書きます。

人里近くの鹿柵は別として、山の上の方に作ってある鹿柵。かなりの部分、作りっぱなしになっていませんか? 鹿柵なんて、倒木やらなんやらで、数年経てば大量の粗大ごみになってしまいます。特に始末に困るのが、鉄条網。柵自体がすっかり倒れてしまっても、落葉の下とかに鉄条網が残っていて、すべての生き物にとって有害以外の何物でもありません。そういう粗大ごみと化した大量の柵の残骸が、山の中に放置されたままです。

誰が誰の土地で誰のお金で誰の利益のために設置しているか、さまざまだと思いますし、だからこそ誰も語らない(語れない)のかもしれません。大抵、そうやって、明らかな問題がそのまま放置されます。だからこそ、その必要性を説く学者は、その立場を生かして、そこまで目を配って語ってほしいという気持ちがあります。

 

2021年12月19日 (日)

沸石(山梨県大月市九鬼山周辺)(小沢鉱山の遺構?)

輝沸石 Heulandite (Na,Ca)2-3Al3(al,Si)2Si13O36・12H2O 珪酸塩鉱物

濁沸石 Laumontite CaAl2Si4O12・4H2O 珪酸塩鉱物

 

Heulandite_kukisan_01

Laumontite_kukisan_01

 

中央線大月駅の東隣、猿橋から南に小沢川に沿って山の中に入ると、小沢地区。さらに奥に行けば朝日小沢という地域で、その裏山が九鬼山です(この辺、頭に「朝日」がつく地名がいくつかありますね。朝日曽雌、朝日馬場など、どういう謂れがあるのだろう)。そのまま山を越えれば都留。小沢地域の沢で見つけた沸石です(1枚目:輝沸石、2枚目:濁沸石だろうと思います)。大月を挟んで隣の高川山は沸石や魚眼石で有名ですが、この辺の山では、そこまで立派でなくとも、大抵何かしらの沸石はあります。地質的には、丹沢のトーナル岩体を取り囲む丹沢層大山亜層群の続きにあたり、海洋起源の玄武岩の層です。

 

TrekGEOの「山梨県の鉱物」には、大月市の小沢鉱山という場所が載っています。銅の二次鉱物などが産出すると記されていますが、多分この九鬼山のある小沢のことだろうなあとちょっと気になっていました。このリストを見るに、銅を採掘していたのだろうか。でも検索などしてみても、ほとんど、というかまったくヒットしないんですよね。地形図を見ると怪しげなところは何か所かあって、正確な場所も、いつの時代なのかもわかりません。以前一度だけ「朝日小沢鉱山」でヒットしたことがあって、奥の方だろうとは思っていたのですが(今検索してみても、その時見たサイトは見つからない)。。。それで、一度九鬼山に登るついでにちょっと様子を見てこようと思い、でかけてみました(最近大月周辺の山に凝っています)。

とりあえず一番奥の方から探してみようと、まず朝日小沢の諏訪神社(地形図上の神社記号)脇から出ている林道に行ってみました(地形図には出ていませんが、ここから九鬼山に登る登山道もある)。すると、林道の奥には、現在は植林されていますが、どう見ても鉱山跡と思えるような石組と平場が、結構広い範囲にわたっていました! 下の地図の地点0です(地図をクリックすると拡大します)。

Ozawam_map

いきなり見つけた! と思って、流木と一緒に多数転がっている石をいろいろ見てみたのですが、どうやら沢の上流から流れてきたもので、まあようするにこの辺の山で普通に見られるようなものばかり。鉱石っぽい感じの石はもちろん、銅の二次鉱物など欠片も見つかりません。ズリっぽいところや坑口などもなさげ。ここではないのか? それとももうすっかり整理してしまったのか。

Ozawam_01
地点0の石組あと。

 

仕方なくあきらめ、少し戻って九鬼山に向かいました(写真の沸石は、その途中の沢と山の斜面で見つけたものです)。

九鬼山は、大月市秀麗富嶽十二景のひとつにも選ばれていて、割とお手軽なので、結構ハイキングで賑わう山です。でも、交通の便の悪い小沢方面から登る人はほとんどいないようです。大抵は猿橋から御前山、あるいは大月から菊花山に登り、そのあと九鬼山まで縦走して、都留側の田野倉方面に下山をする人が多いようです(あるいはその逆)。

自分も九鬼山頂上からそのまま北に向かい(地図では道が描いてありますが、現在道はない)、トラバース道と合流すると、ちょっと平坦な場所に着きます。紺屋の休場といわれている場所で、西側がなぜか伐採されており、三つ峠、高川山、小金沢連嶺などがよく見える気持ちのよいお休み場所です。そこを過ぎてすぐのところで、道の脇に放置された古い空中索道の鉄塔がふたつ並んで建っているのに出くわしました(地点5)。まさかの空中索道!(まあ鉱山のものと決まったわけではなく、林業用のものだったのかもしれないわけですけど)銘板のようなものは、少なくとも目につくところにはついていません。事前にヤマレコなどでここを通った記録をいくつか見ていましたが、この鉄塔について書いている人は全然いませんでした。気づかないとは思えないのだけれど。

 


(2021/12/27追記)

コメントの書き込みのおかげで、この鉄塔が、鹿留水力発電所から新宿戸塚変電所(現・目白変電所)まで結んでいた、日本初の長距離送電線(谷村線)の鉄塔であるらしいとわかりました。道理で空中索道にしては鉄柱が細かったわけだ。。。写真を見ると、少なくとも稜線にあるもの以外の鉄塔は、もっとも古い大正期のものと同型をしています。思ったよりももっと古い遺構でした。


 

Ozawam_07
地点5の稜線上の鉄塔

 

場所的に、先ほど見た鉱山跡?とは関係なく、明らかに北東の沢(札金峠から東に下った沢)に向かっているものと思われました。沢沿いになだらかな地形が広がっていて、地図を見て一番怪しいと思った場所です。ここか! これで、次に探す場所が決定しました。

その日は、昔はかなり人の通りがあったらしく切通しになっている札金峠、御前山経由で猿橋に戻りました。

日を改めて、次は直接札金峠東の沢に向かいます。林道に入ってしばらく進むと、なだらかな沢沿いは全域植林されていますが、まるで広い集落があったかのように、沢の両岸に何段も長い石組が並び、平場が作られていました。これが鉱山跡だとしたら、相当大規模だったようですね。。。鉱山で働く人の住宅などもあったのかなぁ? ここが小沢鉱山の中心地であったとして間違いないかな?(さらにまったく別の場所にある可能性も?)

Ozawam_02
札金峠東の沢の石組

 

両岸をぐるっと回って、いくつか流れ込んでいる枝沢などものぞいてみましたが、ズリはもちろん、坑口なども見つからず。落ちている石をちょっと探してみましたが、ほとんどはこの辺の山にある石ばかりでした。ひとかけだけ、石英のついた鉱石っぽい顔つきの小さな石があり、試しに割ってみたら、小さな晶洞の中に微細な水晶やきれいな三角形のチタン鉄鉱? の結晶などが見つかりましたが、銅を思わせるようなものは何ひとつありません。鉱山であったとしても、どうやらもうきれいさっぱり掃除済みのようです。。。小沢川は、桂川、相模川と続いており、有害物質の流出などに関しては、特に横浜市あたりがうるさそうですしね。しかし、これでは石に興味ある人は誰も見向きもしなくて当然という感じです。残念でした!

ただ、歩き回っているうち、うす暗い植林の中に、木に紛れて鉄塔が実にわかりにくく建っているのを見つけました。やはり空中索道の起点はここだったようです(地点1)。石もないので、とりあえず索道のあとを追ってみることにしました。

地点1と地点5を結ぶ尾根上には、多分管理道の痕跡と思われる道のあとが残っています。あるいは、現在でも林業の作業道として使われているかもしれません(山の上にはパッチワーク的に植林地がある)。そして、尾根上には、その道跡に沿って3つの鉄塔が残っていました(地図の1~5が鉄塔です)。

 

Ozawam_03Ozawam_04
左:地点1、沢沿いの植林内に残る鉄塔。右:地点2、尾根上の最初の鉄塔。

 

Ozawam_05Ozawam_06
左:地点3、尾根上の鉄塔、ここの直前から道は尾根をずれる。右:地点4、斜面に建つ鉄塔。

 

地点4を過ぎると、道の痕跡は急に不明瞭になります。しばらくまっすぐ進んでみましたが、鉄塔はもうなさそう。多分地点4から道は尾根に登り、最後の稜線上の地点5まで尾根伝いに行くのだと思います。

稜線上の鉄塔(地点5)は、二つ並んで建っています。ここで、下り用の索道にわざわざ積み替えたのだろうか。もしかしたら紺屋の休場というのは、鉱山用の何らかの施設があった場所なのかもしれません。あと鉄塔の鉄柱がずいぶん細く、弱そうな感じがするのですが、どうなのでしょう。もしかしたら資源のない戦時中のころ建てられたものとか? 

ちなみに、反対の都留方面にそのまままっすぐ路線を延ばしてみると、尾根をひとつ乗っ越したあと、現在富士急・禾生(かせい)駅から九鬼山に登る登山道とほぼ経路を同じくし、駒橋発電所の落合水路橋付近にたどり着きます。1907(明治40)年、東京電燈株式会社(現・東京電力)により建設され運用が開始された水力発電用の、煉瓦造りの水路橋です。日本初の長距離送電のための設備で(東京まで60km送電した)、なんと今も現役で稼働中の有形文化財。

索道の動力源は駒橋発電所だったのでしょうか。現在の禾生駅からの登山道は、当時の鉄塔の管理道をもとにしているのかもしれません(現在の東電の鉄塔管理道がそのまま登山道になっている例は結構あります)。都留側はまだ行ったことがないのですが、もしかしたら山中に鉄塔がまだ残ってるかも? 禾生駅から現・富士急行線で鉱石を運んでいたのか(富士急の歴史は長く、明治の都留馬車鉄道富士馬車鉄道から始まります)。沿線沿いには富士鉱山、ちょっと線路から離れるけれど宝鉱山など、かなり規模の大きな鉱山も点在していました。

札金峠の名前も、ちょっと気になります。もっと昔(信玄時代?)には、あるいは金山があり、運び出す経路だったという可能性? 鉱山と麓での荷の運搬時、勝手に採掘物を持ち出せないよう、札を峠に掲示したとか、そういった謂れがありそうな気がします(丹沢の札掛が幕府御林の当番の札をかけた場所からきた地名だったのと同じような)。切り通しになっているような峠は、今では通る人が少なくとも、昔は街道沿いだったり地元でよく使われるルートだったりと、人通りが多かったところが多いです。今と昔では、人の流れの経路が全然違うので。

疑問ばかりですね。地域の年史など、いろいろ調べてみると面白そうですが、個人的には鉱物的に見るべきところが少ないので、まあここまでですかね。。。

とりあえず、その経過だけ、書き残すことにしました。でも、探してる間は実に面白かったのです。それに索道のあった尾根はなかなか明るいいい尾根だったから、得した気分(笑)。

 

Ozawam_08
切り通しになった札金峠。現在では、登山道のある稜線を通る人は多いが、峠を越える人はほとんどいない。

 

2021年11月30日 (火)

閃亜鉛鉱(山梨県南巨摩郡身延町川尻鉱山)

Sphalerite ZnS 硫化鉱物

 

Sphalerite_motosu_01

 

前回の草間鉱山のほど近く、本栖湖畔の川尻鉱山(本栖鉱山)の閃亜鉛鉱です。

戦後の昭和30年まで稼働していた鉱山で、金銀銅などを中心に採掘していました。例によって武田信玄の開発した金山という話ですが、一時中断していた後、大正から再び掘られるようになりました。その詳しい歴史や、働いていた方のインタビューが、こちらのサイトに掲載されていますので、興味のある方はそちらを参照のこと→山梨県下部町川尻金山の金鉱石。閃亜鉛鉱も採掘の対象であったようですね。

現在は、鉱山への入口付近は洪庵キャンプ村になっていますが、このインタビューを見ると、洪庵の経営者(?)も鉱山の関係者だったことがあるみたいですね。洪庵キャンプ村は、富士山の見える対岸の洪庵キャンプ場よりも人が少なく静かなので、これまで時折利用していましたが、まさかその奥に鉱山があったとは。キャンプ村の奥は非常になだらかで広い扇状地形が広がっていて、沢はかなり大幅に改修工事されています。その沢に沿って御飯峠に登る道のそばに、大きく立派な坑道が口を開けています(「現在地 下部町釜額金山」という古い木の道標のあるあたりの対岸です。ここも昔は金山という地名だったようですね)。

 

Motosum_01

 

少し離れた平地に、茶色に酸化した鉱石が散らばっている場所がありました。多分ここが選鉱場だったところかな? 下の写真のような感じの鉱石の中に、金がついていたみたいですが、まあ選鉱した後の鉱石だしね。。。金は今のところ見つけられていません。

黄鉄鉱、黄銅鉱、ちょっと青っぽいところは方鉛鉱か。黒いのは閃亜鉛鉱でしょう。きれいな結晶という感じではない塊ですが、ずっしりと重くて、豊かな鉱石という感じでいいですね。

 

Koseki_motosu_01

Koseki_motosu_02

 

この周辺にはいくつも枝沢がありますが、それぞれの川原の石を探してみると、小さな水晶や方解石の塊や緑のパンペリー石のようなのも見つかります。その沢沿いに露頭があるのか、それとも鉱山のズリが広範囲にわたって散らばっているのが紛れたのか、ちょっと判断がつきませんが、場所によっては少し母岩の種類が異なるようです。

まあ洪庵はそのうちまた来ることもあるでしょうし、キャンプ場から歩いてすぐなので、この先いろいろ調べてみたいですね。この付近の山の上もちょっと気になるんですよね。裏の雨ヶ岳の頂上直下にも、信玄時代の金山があったという話もありますし。

 

ただ、最近、特に本栖湖対岸の洪庵キャンプ場の混みようは異常です(ここに限らず、各所のキャンプ場もだけど)。以前は冬なんてパラパラだったような気がするんですが。。。

もちろん新コロの影響もあるんですが、一番の原因は「ゆるキャン△」ですねw

特に洪庵キャンプ場は一番最初に出てくる、いわば「ゆるキャン」を代表するキャンプ場で、中の倉トンネル駐車場の公衆トイレとか、一番の聖地になってるのでは。自分はアニメしか見たことないですが、まあわかりますよ、冬のキャンプがすごく魅力的に描かれてましたから(特に1期)。でも、自分と行動範囲がかなりかぶっているので、とても困るんですよねぇ(苦笑)。

はやいとこブームが去らないかなぁと秘かに願っているのだけれども、いつになりますかね。昔「けいおん」でギターが流行ったあと、レスポールの中古がやたら増えたとかいう話もあり、それと同じようにみんなとっとと飽きて道具類が大量に中古で安く出回ったりしないかなぁ、とかね。

そういえば以前、富士急に「ヤマノススメ」電車が走っていた時、三つ峠に行ったのですが、途中で休んでいる二人(山に登るような感じの人ではなく、もっとひ弱そうな若い男子w)の会話が聞こえてきたことがありましたっけ。以前から知り合いではあるけれど、今日初めて会いました、みたいな調子で、道具を一気に揃えて富士山に登りましたよ、まじですかーみたいな?

自分の好きなアニメ見て、富士山や三つ峠駅からの三つ峠登山(このルートは、あおいちゃんもヘロヘロになっていましたが、結構きついのです)をするその行動力は、実に見上げたものだと思いましたね。でも彼らは今はどうしているのだろう。まだ山に登っているのだろうか、それとももう違うのに凝っているんだろうか。まさかキャンプしてるとか? でもまあそれもいいかもね。いろんなことを手当たり次第するのは、楽しいもんね。『梁塵秘抄』ではないですが、人は遊ぶために生まれてくるのだし、〈真面目に〉遊ぶことは、なにより楽しいのだ。石探しもまたしかり。

 

2021年11月25日 (木)

菱マンガン鉱(山梨県南巨摩郡身延町草間鉱山)

Rhodochrosite Mn(CO3) 炭酸塩鉱物等

 

Rhodochrosite_simobe_01

Rhodochrosite_simobe_02

 

身延にある下部温泉の奥、草間鉱山(下部鉱山)は、マンガンを主体とする産地です。マンガンだけでなく、銅の鉱床も入り混じっているようです。草間鉱山のある下部川の支流・入ノ沢をさらに上流まで遡れば、武田の金山跡(茅小屋金山)もあるらしい。自分が現地に行ったときには河川工事作業中で、鉱山跡まで行けなかったので、仕方なく林道そばの川原でさがしました。それでもチョコレート色のハウスマン鉱、黒く輝くブラウン鉱などは目につくところに多く落ちていたし、塊状の満礬柘榴石、また自然銅らしい部分を含んだ石などもありました。沸石も豊富です。

かなり昔から本などで紹介されていたようで、有名なポイントですが、さすがに不便な場所でもあり、そうそう気軽に訪れるわけにもいきません(昔、碧っぽいうさぎの人が隠れたりしてましたよねぇ、そういえばw)。下流の川原でもこれだけ色々見つかるのだから、ズリまで行けばまだいろいろあるかもしれません。

写真は、赤く四角っぽい菱マンガン鉱(だと思います)の結晶ですが、その周りに一面についているきらきら光り輝く粒子はなんだろう。小さすぎてわからない(ベメント石:Bementite〈Mn7Si6O15(OH)8〉かな?)。相変わらず微細な結晶ですが、実体顕微鏡の接眼レンズごしに見るその姿は、息をのむくらいにきれいですね。二次元の写真では、なかなか表現しきれないです。

Rhodochrositeは「バラ色」という意味のギリシャ語(ρόδο χρώς)が語源で、方解石の仲間で硬度も3.5~4程度と硬くないのですが、その色の美しさから大きなものは宝石としても扱われます。日本も代表的な産地のひとつですが、鉱山がすべて閉山して久しい今となっては、立派な結晶はそうそう見つからないでしょうね。それでも、各地のマンガン鉱山跡では、今でも割と目にすることの多い鉱物です。でも真っ赤なものはそうそう見つからない感じ。

 

入ノ沢の草間鉱山(下)でしばらく石を探したあと、本流の下部川の川原に降りてみたのですが、ここもいろいろ面白い石がありますね。しかも、草間鉱山のようなマンガンに加えて、それとはちょっと違う系統の石英を中心とした鉱物なども見つかります。どうやら下部川の上流には、ほかにも面白そうな場所があるみたい。。。このあたり、もうちょっと探索してみたいなあ。

 

Shimobe_01

入ノ沢そばの林道に立っている、湯之奥金山の説明板。草間鉱山については何も記述がないが、ここが鉱山跡への入口。

 

ところで、現在(2021/11)、身延はたいへんに不便な状況にあります。草間鉱山に行ってから富士山側に抜けようとしたら、身延から中ノ倉を通って本栖湖に抜ける道が崩れて通行止めとか。迂回路を使えと看板があったのだけれども、それが、一度甲府盆地まで出てから精進湖を通るルートで、どれだけ遠回りなんだよ。。。

ちなみに草間鉱山の林道の奥も、湯之奥猪之頭トンネルで天子山地を突っ切って、朝霧高原・人穴の方に通じているのですが、ここも今のところ通行止めです。つまり、富士宮から精進湖まで、身延と富士山麓側との通行ができるところがすべて封じられているという状況です。折角、富士川沿いを、甲府と静岡をつなぐ中部横断自動車道が繋がったというのにねぇ。。。

 

2021年11月 7日 (日)

コバルト華?(山梨県北杜市増富鉱山)

Erythrite? Co3(AsO4)2・8H2O 燐酸塩鉱物等

 

Erythrite_masutomim_01

Erythrite_masutomim_02

 

もうゴミでは? というような小さなシミみたいな感じですが、やっぱりこんな色をしていたら「おおっ?!」と目を引きます。写真はかなり拡大しているので、ボケてしまってますが、肉眼で見ても、この写真よりも細かく見えるということはありません。これは顕微鏡そのものがそんないいものではないこともあるし、何より自分の目がかなり悪いからでもあります。ただ写真で見ると、ただシミが広がっただけでなく、何となく放射状のパターンにのっとっているような感じがしないこともない。。。かな?

で、なんだろうといろいろ考えた末、コバルト華ではないかとしました。増富鉱山でコバルト系の鉱物が確認されたことはあるんでしょうか。ちょっと調べてみた限りではなさそうです。

大体こんな鮮やかなピンク色の鉱物なんてそうそうないわけで、まずコバルト華が思いつくのです。というかマンガンとコバルト系以外思いつかなかったw 場所的にマンガンはないだろうと思いますので。。。

構成元素から考えると、As(砒素)は、硫砒銅鉱が産出するのだから十分あります。OとHについてはもちろん問題なし。

あとはCo(コバルト)ですが。。。

ネットで探していて、安藤厚「硫化金属鉱鉱床に伴なうゲルマニウムの地球化学的研究」(地質調査所報告 第208号、1964)(https://www.gsj.jp/data/rep-gsj/No208.pdf)という論文を見つけました。22ページの「第7表 山梨県 増富鉱山産 銅藍および硫砒銅鉱中の微量成分」に、増富鉱山のこの2種鉱石試料の微量成分の定量分析結果が載っています。それによると当論文の目的であるゲルマニウムが硫砒銅鉱中に多く含まれるという結果になっていますが(近くのラジウム温泉の関係ですかね?)、コバルトCoもきわめて微量ではあるけれども、特に硫砒銅鉱には含まれていることがわかります。であれば、材料は一応そろっていると。

まあ実際には分析とかできないですし、そもそも無機化学の基礎知識にも欠けますし、あくまでこれはお遊びですので、真面目に取り上げられると困りますが、こういう変なものも鏡下レベルでは出る可能性がなきにしもあらず、ということですかねw 大体増富鉱山ってちょっと変わったものばかり産出するというイメージです。TrekGEOで増富鉱山の産出鉱物として挙げられているのは、硫砒銅鉱、ルソン銅鉱、白鉄鉱、硫黄、コベリン、銅緑ばん、コルヌビア石、明礬石。すぐそばの温泉も、ちょっと他と違う、日本では珍しいラジウム温泉ですし。

 

ところで温泉って、お湯に含まれるいろんな成分によって効能があるといわれますが、これって実際のところ、どの程度信憑性があるんでしょうかねぇ。日常とは違うきれいな山や海で、気持ちいいお風呂に入っておいしいものを食べてゆっくり過ごせば、別にお湯そのものに効能とかなくても、十分に心身にいいと思うわけで。お湯自体の成分が、どう体に影響してくるのだろう。皮膚から吸収するものなの? それとも湯気とかで体内に入る? 硫黄のまじったお湯につかることが健康に良いのか? 自分も温泉は嫌いではないですが、山に行った帰りに入るとかはあんまりしないですね。お風呂に入るのって基本面倒くさいし時間かかるし、それよりとっとと帰って、ゆっくり家のお風呂に入ったほうがいいので。

でも、関東周辺に限れば、結構いろんな温泉に行ってるかも。自分のお気に入りは、伊豆・湯ヶ島、伊豆・雲見、群馬・川原湯温泉とかですね。湯ヶ島はかすかに硫黄のかおりがするかしないかといった感じの、とてもいいお湯です(硫黄が含まれているかどうかは知らない)。猫越川(持越川)をちょっと上流に行けば、川原に鉱石も転がっていますw(湯ヶ島鉱山、持越鉱山)

雲見は海の水が地下で熱せられたお湯かな、しょっぱいというより、にがりになっているようです。温泉の多い伊豆でも、ちょっと独特の温泉。伊豆で旅館に泊まったりする時は大抵雲見に泊まります。昔いつも泊まっていた旅館は、「とんび」というドラマで使われていましたが、もうずいぶん前に営業を終えてしまいました。

群馬吾妻溪の川原湯温泉は、例の長期騒動になった八ッ場ダムで、以前の長い歴史を持つ温泉街は消えてしまいました(温泉を見つけたのは源頼朝だったとか)。草津温泉を穏やかにやさしくしたような、とてもいいお湯だったんですけどね。温泉街はまったく新しい場所に移ったようですが、違う源泉で湯質も以前とは違うそうですし、はたしてどうなったのだろうか。。。ムササビはもういないのかな。。。

 

2021年10月27日 (水)

透輝石(山梨県道志村道志川流域)(丹沢の地名について2)

Diopside CaMgSi2O6 珪酸塩鉱物

 

Diopside_doshi_02

Diopside_doshi_01

 

道志のペグマタイトで拾った石。先の尖った板状結晶。写真中のボケた緑の部分は、すべて緑簾石です。あんまり緑が入ってないけど、これも透輝石・・・でいいのかなぁ?
先端が一方にちょっと偏った剣先のような形は、まるで有名な洞戸鉱山の透輝石の結晶みたいです。まあ見たことないんですけどね。
組成が純粋なほど無色透明、Feが多いほど緑が濃くなるそうですが、もうちょとはっきりとした色形を持ってほしいもんです。どうもよくわかりません。
少なくとも、道志では初めて見る形の透輝石らしき結晶ですね。ほんのちょっと場所が違うと、色形が全然変わってしまうのでしょうか。

ちなみにこれを採集したのは、城ヶ尾峠の割と近くです。
山を越えて神奈川に行くと、はっきりとしたペグマタイトはすっかり姿を隠してしまうのですが、どうにも納得できません。すぐそばなのに(県境と直線距離にして100mくらいしか離れていない)、大又沢流域では長石や水晶はほとんど見ません。

昔、城ヶ尾峠を通って相州と甲斐をつなぐ間道(関所を通らず通行できる道)がありました。
今回はその古道、サカセ道と信玄平について、ちょっと書いてみました。

 

(丹沢の地名について2)
現在の道の駅・道志のあたりから、神奈川県・中川上の原に至る、サカセ古道といわれる道がありました。今でも、その一部は登山道、あるいは廃道として痕跡が残っています。少なくとも南北朝時代から、地蔵平に集落があったころ(昭和40年ころ)までは、現役だったと思われます。
足利尊氏と相争った新田義興(1331-1358)が鎌倉から甲斐に逃げる際に砦を構築したと伝わる城ヶ尾(以下、城ヶ尾山南尾根のことを城ヶ尾(根)と書きます)、武田信玄が小田原を攻める際に陣を敷いたという信玄平などがあり、非常に歴史ある道です。
その経路がどういうルートであったか、信玄平がどこだったのか、『甲斐国志』『新編相模国風土記稿』などからちょっと考えてみました。

Omatasawamap
(クリックで拡大)
出典:関東森林管理局Webサイト、施業実施計画図(2万分の1) 神奈川4-2地図(林班図)に筆者追記(文字・赤線)
(https://www.rinya.maff.go.jp/kanto/attach/pdf/R20700_keikaku_zumen-144.pdf)

 

『甲斐国志 巻之三十六』
「山之部
一 加古坂
(略)三ヶ脊[みつがせ]山ニ至ル又入會山ヨリ峯分レテ一里余東ニ行テ高叉(ザス)山ニ至ル此山間相州小田原ヘ出ル間道アリサカゼ沢通ト云寒[塞?]地ヨリ溪水ニ添テ南ニ行サカセ峠ニ上リ嶺上ヲ東ニ行キ廿町[約2km]許ニシテ峯ヲ掘破シ趾アリ堀切ト云峯ヲ下テ相州ニ入少シ平地アリ信玄平ト云是ヨリ相州ヨヅク村ニ下ル此間二里[約4km弱](略)高叉(ザス)ヨリ巳ニ峯ツヽキ殿ムレ山ト云峯ヨリ二町許リ北ニ聳ヘタル孤峯アリ城山ト云」
[ ]筆者注、〈 〉割注
山梨デジタルアーカイブ 甲斐国志 17 資料番号0000359918 35~36ページ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000019-YMNS1000116

 

『甲斐国志 巻之三十七』
「川之部
一 道志川
(略)板橋善ノ木ヲ過テ南岸サカセ川ト會此川南龍ノ沢[山之部では瀧ノ沢]ヨリ北ニ流レ出又高又山[山之部では高叉山]ノ西谷ヨリ出テ西流シテサカセ沢ニ至テ瀧ノ沢水ト會西北一里[約2km弱]許ニシテ此[道志川]ニ入(略)」

山梨デジタルアーカイブ 甲斐国志 18 資料番号0000359919 36ページ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000019-YMNS1000117

三ヶ脊山=菰釣山?  高叉山=大界木山?  殿ムレ山=鳥ノ胸(とんのむね)山?  城山=秋葉山?  サカセ峠=城ヶ尾峠?

 

三ヶ瀬川は現・道志の森キャンプ場で西沢と東沢に分かれます。龍ノ沢(瀧ノ沢)は西沢のことでしょう。源流は菰釣山。東沢は大界木山、浦安峠を源流とし、西流して水晶橋を経て西沢と合流します。サカセ峠は城ヶ尾峠のことであるとされているので、サカセ道は、東沢に沿っていたと考えられます。現在の東沢林道→城ヶ尾峠登山道とほぼ同じルートですね。
次に、サカセ峠から「嶺上ヲ東ニ行キ廿町」で堀切があるという記述です。この堀切とは、「掘破シ趾」ということは人為的なもの、陣の跡でしょうか。
ただ、方向的にちょっとおかしいのですよね。城ヶ尾峠から稜線を東に行けば、大界木山の頂上を経て忘路峠(犬峠)のあたりに行ってしまい、現在サカセ古道といわれているルート、信玄平といわれている場所からまるきりはずれてしまいます。ここで東ではなく、南に行かないと城ヶ尾(根)に乗れない(道自体は峠からまず南西方向に向かう)。
記述の間違いか、あるいはサカセ峠は現・城ヶ尾峠のことではないのか。城ヶ尾峠以西で思い当たるような場所は、現在菰釣山避難小屋のあるそばのブナ沢乗越(現在登山道あり)、あるいはブナ沢乗越と城ヶ尾峠の間の稜線上はそれほど起伏が激しいわけではないので、どこかに登りつめていたのか。でも稜線上を古道が通っていたとは思えないし、やはり記述の間違いと考えるのが妥当でしょうか。
相州側の記述はどうなっているでしょうか。

 

『新編相模国風土記稿. 第1輯』
「中川村(奈可加波牟良[なかがはむら])[その1]
・山  当村四囲総山ナリ。中ニ就テ西北ノ方甲州堺ニ城ヶ尾ト云ヘルアリ。一ニ信玄屋舗トモ。信玄平トモ唱フ。〈甲斐国志ニ見エタル所。下ニ注記ス。〉土人伝テ村内小名上野原ヨリ。津久井県センヌキ[現・道志善之木か?]辺ヘノ古道此地ニ在シト云。又甲州道志村〈都留郡の属。〉ノ山中ヲ経テ。当村ニ出ル間道ヲ。サカセ古道ト唱フ。旧甲州ヨリ。小田原ニ到ル。捷径ナリト云モ。此辺ノ事ナリ。〈甲斐国志サカセ古道ノ条ニ。道志村塞地ノ山中サカセ入ト云地ヨリ。山ヲ越テ相州西郡ノ内。中川村ニ出ル間道アリ。此間凡二里半。古小田原ヘノ通路ナリ云々。其下ニ少シ平ナル所ヲ。信玄屋舗ト云伝フ。永禄中小田原ヘ責入時。信玄此道ヲ通行シ。山中ニ宿陣アリシトナリ。小田原ヘノ行程此道甚近シ云々。又加古坂ノ条ニ。サカセ峠ニ上リ。嶺上ヲ行二十町許ニシテ峯ヲ掘破シ趾アリ。堀切ト云。峯ヲ下リテ相州ニ入。少シ平地アリ。信玄平ト云。是ヨリ相州世附村ニ下ル云々トモ見エタリ〉。(略)」
国立国会図書館デジタルコレクション
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号287~290

 

後半、『甲斐国史』からの引用になっているのですが、「嶺上ヲ東ニ行キ廿町」が、「嶺上ヲ行二十町許」となっていて、「東ニ」がなくなってますね。。。こちらの記述だけ見れば、矛盾がなくなってる。
もしかしたら、『相模国風土記稿』では、現地をあらたに調査して、『甲斐国史』を引用するにあたって、矛盾が出ないように記述した?

ちなみに『甲斐国史』の完成は文化11(1814)年。『相模国風土記稿』は天保12(1841)年。この天保12(1841)年から、甲斐(平野村)と相模(世附村)の間で、国境紛争が始まっています(決着がついたのは弘化4年(1847)年)。紛争にあたってこの周辺の調査が行われたようですし、『甲斐国史』も参考にされたはず。甲斐側が国境はどこであると捉えていたのか、まさにその記述があるわけですからね。国境紛争の始まった年と、『相模国風土記稿』の完成年が同じなのは、ちょっと気になるところです。。。

とりあえず、『甲斐国史』の「東ニ」は間違いだとして、現・城ヶ尾峠をサカセ峠と考えて、話を進めます。
城ヶ尾根は特に信玄平の下はなだらかで広く、馬でも十分通行できただろうなと思える尾根です。現在の登山道は、城ヶ尾峠からまず西側にある城ヶ尾山の山腹をトラバースし、尾根上に出てしばらく進むと、現在信玄平とされているところに出ます(昔の峠越えの道はどこもこのような経路どりをしていることが多く、現在の登山道と古道が大体同じルートであろうと予想できます。ちなみに今はトラバース部分で崩壊して登山道としては通行止め)。信玄平とされている箇所は、尾根上の道と、奥野歩道、白石歩道の十字路になっています(これらの道がいつごろからあったものなのかはわかりません。現・信玄平は尾根上の平場ですが、正直軍勢が滞在できるほど広くはないし、水を用意するのも大変そう)。
方向はともかく、どちらの文献でも峠から堀切まで約二十町となっていますが、実際には峠から現・信玄平まで1km程度です。
さらに、まず堀切があり、そのあと峯を下って相州に入り、そこに信玄平があるという記述は、現在の地形と考え合わせると、かなり違和感がある。尾根の途中にある場所を、「峯ヲ下リテ」と表現するでしょうか。信玄平から北、ちょっとした登りになりますが(1084峰)、「峯ヲ下リテ」というほどのピークではありません。それをいうなら、尾根はずっと下ってるのだし。
信玄平が国境というのもちょっと変かも? 尾根の途中、特にはっきりとした目印のない場所に国境があったことになってしまいます。普通、国境は稜線、尾根、沢などの地形的に境界となるような線をなぞるものではないか。
現在の登山道では、峠から約2.5km尾根を下ったあと、東に斜面をジグザクに沢まで降りて、地蔵平に着きます。
普通に文献を読んで辿っていくならば、地蔵平がすなわち信玄平であると考えるのが自然ではないでしょうか。「峯ヲ下リテ」は「沢まで下りて」と解釈するのが自然。軍勢のような多人数が宿陣するには、地蔵平のような沢沿いで水もすぐ手に入り、広い平地こそが適当でしょう。地蔵平の集落が信玄がきっかけでできたのか、もっと昔からあるのかはわかりませんが、昭和まで信玄の書状を保管していた家もあったそうです。

いずれにせよ、尾根上に「堀切」といわれたところがあったはずなのですが、そういうものを思わせるものは現在では残っていないようです(自分は気づかなかった)。
ちなみに、地蔵平から尾根上に登らず、城ヶ尾根東側山腹をトラバースする道のあとが現在でも残っています。ところどころ古い石垣も残っていて、山仕事の作業道とは思えないのですが、しばらく行くと崩壊して消えてなくなってしまうので、どこまで続いていたかはわかりません。昔の峠道は、尾根上ではなく山腹を切って行くことも多いことを考えると、こちらが昔のサカセ古道のあとと考えることもできるかもしれません。

 

城ヶ尾(根)の西側の沢は白水沢といいますが、実際に水が白い(流れたあとが白くなっている)沢です。信玄が宿陣した際にお米を大量にといだので白くなったという言い伝えがあります。
鉱物的には黄銅鉱が多く見られ、なんとなく南の世附川沿いの峯坂沢(やはり白い沢で粒子状の黄銅鉱・黄鉄鉱が多い)を思い起こします。ただ、白水沢の黄銅鉱は粒子状ばかりではなく、かなり粗粒。これは丹沢層の南北の差の特徴といっていいのかな。
さらに白水沢の西隣の沢は白石沢といいます。白石沢といえば、加入道山のスカルンの白石沢を思い出しますよね。。。
以前書いた水晶沢も含め、信玄はこの周辺にかなり興味を持っていたのかも?(鉱物的な意味で)。

ところで、現・信玄平から奥野歩道が東に分岐しており、水晶沢などを通過して相州の大滝峠まで通じています。大滝峠から山を下れば、中川温泉近くに着きます。
信玄平から東の赤沢(ほんとに赤い岩が目立つ沢)に下りるのに便利じゃん! と思ってちょっと歩いてみたことがあるんですが、もう「ルート」とはいえませんね、ここ。まじで死ぬかと思った。昔は東海自然歩道として立派な登山道だったのかな。。。もう二度と行きたくないw

 

追記(2021/10/31)
ところで『相模国風土記稿』中川村の項には、土人の伝として、新田義興は中川村に城郭を置いていたが保ち続けられず、当村の奥帚沢より山越して甲斐に逃げたとあります。だとすると、サカセ道ではなく、大滝峠を越したのかもしれません。大滝沢を通って大滝峠をこえる道も古く、地蔵平に抜けることができます(『相模国風土記稿』に記述のある中川村北寄りにある大嶽沢というのが、大滝沢のことではないか。ワリ沢という枝沢〈複数あるらしい〉に大岳橋というのがあったようですが、詳細は不明。『風土記稿』世附村の項に南方にある大嶽というのも出てきますが、これは別の山のことかな?)。大滝沢中流域の、現在一軒家避難小屋のあるあたりは、赤軍派の隠れ家があって爆弾作ってたところですが、もともと以前は集落があって、昭和初期にはここの子どもたちは山を越えて地蔵平の分校に通っていたそうな。

いずれにせよ、今では神奈川の奥地で登山者しかいかないような奥地ですが、昔は割と行き来があったのかもしれませんね。

 

追記(2021/11/04)
大又沢上流辺の尾根を登ると気づくのが、ほとんどの尾根の途中に、必ずといっていいほどとてもなだらかで広いところがあることです。場所によってはテント数百張りもできそうな平場が広がっています。地形図を見ると、最上流部付近では標高1000から1100m、大滝橋付近では900から1000m、地蔵平周辺では800から900mあたりと、南に行くほどその平場の標高が下がっているのがわかります。現・信玄平もその平場のひとつですね。沢から急な傾斜で登り、なだらかな平場が続いたあと、また急に傾斜が強くなって稜線にたどり着く。まあ尾根ではよくあるパターンですが、この周辺の平場は特に広くてなだらかで気持ち良いので、とても印象的なのです。
多分昔は、この辺一帯、なだらかに南に傾いた広い高原が広がっていたのだと思います。そこを幾本もの沢が浸食して深い谷を作り、それぞれの尾根上には高原の名残であるなだらかな平場が残ったのが現在の姿なのでしょう。
丹沢の南の足柄山地周辺は、もともとプレート境界の深い海溝であったのが、200万年くらいのうちに、主に丹沢からの土砂で急速に埋まり、その堆積層の厚みは5000メートル以上にもなります。これらの膨大な土砂の産出地のひとつがこの大又沢です。
地蔵平の集落は、関東大震災時の山津波で壊滅しました(残ったのは今もある山の神さまのお社だけだったとか)。ここの気持ち良い平地を作ったのも壊すのも、この土砂です。隆起と侵食のダイナミクスを直に感じることのできる場所ですね。

 

(参考サイト:山の子yk =世附山あれこれ=

 

2021年8月19日 (木)

自然金(山梨県大月市大月町本沢鉱山)

Gold Au 元素鉱物

 

Gold_honzawam_01

Gold_honzawam_02

Gold_honzawam_03

 

本沢鉱山で見つけた自然金です。母岩は石英。1枚目の写真、ちょっとへこんでますが、金がどうか調べるために針でつついたのですw 金は非常に展性(圧力をかけても破壊されず薄く広がる性質のこと)が大きく、箔状に広がります。色が似ている黄鉄鉱などは、つつくと粉々になってしまうので、この性質ですぐに判断ができます。

金と一緒になっているちょっと黒っぽい金属光沢部分は、金と共生することの多いホセ鉱(Joseite)ではないかと思います。ホセ鉱はビスマス、テルルと硫黄からなる鉱物で、組成のわずかな違いで、ホセ鉱A(Bi4TeS2)、ホセ鉱B(Bi4Te2S)などがありますが、肉眼では違いは分からないそうです(比較観察したことはない)。本沢鉱山ではホセ鉱Aの産出が報告されていますが、自分では判断できません。

本沢鉱山も、石英質の石は少なくなっていますが、それでもまだこんな自然金が見つかるもんなんですねぇ。小さなかけらですが、鏡下ではあちこちに金色の輝きを見ることができます。まああまり人も来ないんでしょうね。秩父鉱山やら甲武信鉱山では、あちこちで石を割ったあとや、ルーペやハンマーの忘れ物があったりしますが、ここではそういう痕跡を見たことがありません。結構行きやすいところだし、蒼鉛やテルルといった、結構珍しい成分の鉱物もあります。石英質の石を割ると、強い硫黄臭がします。

もともと金を採掘していた鉱山なので、あってもおかしくないのですが、やっぱり金は他の鉱物と比べても特別感があり、うれしいですね。非常にちっちゃいですけど。

昭和17(1942)~18(1943)年という短期間、沢沿いの露天掘りで採掘していたらしいですが、戦争中の物資かき集めといった感じだったんでしょうか? 現地では鉱山であったという痕跡も全然見当たらないし、詳しいことがわからないので、何ともいえませんが。

 

化学記号のAuの語源は、ラテン語の金を意味するaurumから。「光り輝くもの」の意味だそうで、オーラとかオーロラも同起源の言葉です。現代では、フランス語のOr、イタリア語のOroがこの系統ですね。

英語のGoldの語源は、ネットで検索するとサンスクリット語のjvalita(輝くの意)からきているらしいとありますが、どこがどうなって語源なのか、全然わかりませんw

漢字の「金」は、鋳型の形で表現されていて、もともと金属・鉱石全般(特に銅)を表す漢字だったようです。中国の殷、周・春秋戦国時代のころの、青銅器に鋳込まれたり刻まれたりした文字のことを金文といいますが、この「金」とはつまり青銅器のこと。Goldを金としたのは、もっと後の時代のことのようです。金文では「金」の下部が「土」である表記と「火」の表記の二種類があります。「土」というのは地面から掘り出した鉱石という意味でしょう。「火」というのは、火によって錬成され鋳込まれたものであるという意味ですね。金文より古い甲骨文字では「火」の表記となっていて、はるか昔から、鉱石の溶錬が行われていたことがわかります。

 

基本こういうのはネットで検索することがほとんどです。本は重いし、持ち出すのが面倒だし、引っ越しなどでさんざん苦労したので、できるだけ増やさないようにしていて、もうネットか電子ブックで十分かな? 最近買った本は鉱物関係しかないなw

でも、現在大流行りの新コロ騒動(新型コロナウイルス感染症をめぐる出来事をかわいく、わざと矮小化してそう記していますw)で、あらゆるメディアの信頼性が地に落ちたなあと感じているんですよね。いや違うな、最初から信じてなかったけど、もはや情報そのものが害毒でしかないレベルになってしまった、というか。新聞テレビはもちろんネットも、特に新コロに関してはひとかけらも信用してはいけないんじゃないか。新聞テレビというのは政治、宗教、営利活動の入り混じったもので、もともと公平公正なジャーナリズムなんてのは矛盾でしかないのですが、ネットもたいがいだな、と。。。

お盆に帰省したら家族に感染して次の日に発症してしまいました、なんていう思わず笑ってしまうようなお話が、まじめにテレビやらネットで語られているのを見ると、時間の経過にできるだけ耐えられるように苦心して作られている分、書籍のほうがまだましかなあと思えてきます。。。。まあでも出版社によっては校正をほぼ著者だけにまかせっきりなんてところもあるんですけどね。校正って一番その重要性が見えにくく、削られやすい部分で、しかも一番書籍の価値に直結している作業なのです。

とにかくこの新コロ騒動のおかげで、いろんなことが見えてきたような気がします。

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