最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 沸石(千葉県南房総市平久里川流域)2 | トップページ | コバルト華?(山梨県北杜市増富鉱山) »

2021年10月27日 (水)

透輝石(山梨県道志村道志川流域)(丹沢の地名について2)

Diopside CaMgSi2O6 珪酸塩鉱物

 

Diopside_doshi_02

Diopside_doshi_01

 

道志のペグマタイトで拾った石。先の尖った板状結晶。写真中のボケた緑の部分は、すべて緑簾石です。あんまり緑が入ってないけど、これも透輝石・・・でいいのかなぁ?
先端が一方にちょっと偏った剣先のような形は、まるで有名な洞戸鉱山の透輝石の結晶みたいです。まあ見たことないんですけどね。
組成が純粋なほど無色透明、Feが多いほど緑が濃くなるそうですが、もうちょとはっきりとした色形を持ってほしいもんです。どうもよくわかりません。
少なくとも、道志では初めて見る形の透輝石らしき結晶ですね。ほんのちょっと場所が違うと、色形が全然変わってしまうのでしょうか。

ちなみにこれを採集したのは、城ヶ尾峠の割と近くです。
山を越えて神奈川に行くと、はっきりとしたペグマタイトはすっかり姿を隠してしまうのですが、どうにも納得できません。すぐそばなのに(県境と直線距離にして100mくらいしか離れていない)、大又沢流域では長石や水晶はほとんど見ません。

昔、城ヶ尾峠を通って相州と甲斐をつなぐ間道(関所を通らず通行できる道)がありました。
今回はその古道、サカセ道と信玄平について、ちょっと書いてみました。

 

(丹沢の地名について2)
現在の道の駅・道志のあたりから、神奈川県・中川上の原に至る、サカセ古道といわれる道がありました。今でも、その一部は登山道、あるいは廃道として痕跡が残っています。少なくとも南北朝時代から、地蔵平に集落があったころ(昭和40年ころ)までは、現役だったと思われます。
足利尊氏と相争った新田義興(1331-1358)が鎌倉から甲斐に逃げる際に砦を構築したと伝わる城ヶ尾(以下、城ヶ尾山南尾根のことを城ヶ尾(根)と書きます)、武田信玄が小田原を攻める際に陣を敷いたという信玄平などがあり、非常に歴史ある道です。
その経路がどういうルートであったか、信玄平がどこだったのか、『甲斐国志』『新編相模国風土記稿』などからちょっと考えてみました。

Omatasawamap
(クリックで拡大)
出典:関東森林管理局Webサイト、施業実施計画図(2万分の1) 神奈川4-2地図(林班図)に筆者追記(文字・赤線)
(https://www.rinya.maff.go.jp/kanto/attach/pdf/R20700_keikaku_zumen-144.pdf)

 

『甲斐国志 巻之三十六』
「山之部
一 加古坂
(略)三ヶ脊[みつがせ]山ニ至ル又入會山ヨリ峯分レテ一里余東ニ行テ高叉(ザス)山ニ至ル此山間相州小田原ヘ出ル間道アリサカゼ沢通ト云寒[塞?]地ヨリ溪水ニ添テ南ニ行サカセ峠ニ上リ嶺上ヲ東ニ行キ廿町[約2km]許ニシテ峯ヲ掘破シ趾アリ堀切ト云峯ヲ下テ相州ニ入少シ平地アリ信玄平ト云是ヨリ相州ヨヅク村ニ下ル此間二里[約4km弱](略)高叉(ザス)ヨリ巳ニ峯ツヽキ殿ムレ山ト云峯ヨリ二町許リ北ニ聳ヘタル孤峯アリ城山ト云」
[ ]筆者注、〈 〉割注
山梨デジタルアーカイブ 甲斐国志 17 資料番号0000359918 35~36ページ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000019-YMNS1000116

 

『甲斐国志 巻之三十七』
「川之部
一 道志川
(略)板橋善ノ木ヲ過テ南岸サカセ川ト會此川南龍ノ沢[山之部では瀧ノ沢]ヨリ北ニ流レ出又高又山[山之部では高叉山]ノ西谷ヨリ出テ西流シテサカセ沢ニ至テ瀧ノ沢水ト會西北一里[約2km弱]許ニシテ此[道志川]ニ入(略)」

山梨デジタルアーカイブ 甲斐国志 18 資料番号0000359919 36ページ
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000019-YMNS1000117

三ヶ脊山=菰釣山?  高叉山=大界木山?  殿ムレ山=鳥ノ胸(とんのむね)山?  城山=秋葉山?  サカセ峠=城ヶ尾峠?

 

三ヶ瀬川は現・道志の森キャンプ場で西沢と東沢に分かれます。龍ノ沢(瀧ノ沢)は西沢のことでしょう。源流は菰釣山。東沢は大界木山、浦安峠を源流とし、西流して水晶橋を経て西沢と合流します。サカセ峠は城ヶ尾峠のことであるとされているので、サカセ道は、東沢に沿っていたと考えられます。現在の東沢林道→城ヶ尾峠登山道とほぼ同じルートですね。
次に、サカセ峠から「嶺上ヲ東ニ行キ廿町」で堀切があるという記述です。この堀切とは、「掘破シ趾」ということは人為的なもの、陣の跡でしょうか。
ただ、方向的にちょっとおかしいのですよね。城ヶ尾峠から稜線を東に行けば、大界木山の頂上を経て忘路峠(犬峠)のあたりに行ってしまい、現在サカセ古道といわれているルート、信玄平といわれている場所からまるきりはずれてしまいます。ここで東ではなく、南に行かないと城ヶ尾(根)に乗れない(道自体は峠からまず南西方向に向かう)。
記述の間違いか、あるいはサカセ峠は現・城ヶ尾峠のことではないのか。城ヶ尾峠以西で思い当たるような場所は、現在菰釣山避難小屋のあるそばのブナ沢乗越(現在登山道あり)、あるいはブナ沢乗越と城ヶ尾峠の間の稜線上はそれほど起伏が激しいわけではないので、どこかに登りつめていたのか。でも稜線上を古道が通っていたとは思えないし、やはり記述の間違いと考えるのが妥当でしょうか。
相州側の記述はどうなっているでしょうか。

 

『新編相模国風土記稿. 第1輯』
「中川村(奈可加波牟良[なかがはむら])[その1]
・山  当村四囲総山ナリ。中ニ就テ西北ノ方甲州堺ニ城ヶ尾ト云ヘルアリ。一ニ信玄屋舗トモ。信玄平トモ唱フ。〈甲斐国志ニ見エタル所。下ニ注記ス。〉土人伝テ村内小名上野原ヨリ。津久井県センヌキ[現・道志善之木か?]辺ヘノ古道此地ニ在シト云。又甲州道志村〈都留郡の属。〉ノ山中ヲ経テ。当村ニ出ル間道ヲ。サカセ古道ト唱フ。旧甲州ヨリ。小田原ニ到ル。捷径ナリト云モ。此辺ノ事ナリ。〈甲斐国志サカセ古道ノ条ニ。道志村塞地ノ山中サカセ入ト云地ヨリ。山ヲ越テ相州西郡ノ内。中川村ニ出ル間道アリ。此間凡二里半。古小田原ヘノ通路ナリ云々。其下ニ少シ平ナル所ヲ。信玄屋舗ト云伝フ。永禄中小田原ヘ責入時。信玄此道ヲ通行シ。山中ニ宿陣アリシトナリ。小田原ヘノ行程此道甚近シ云々。又加古坂ノ条ニ。サカセ峠ニ上リ。嶺上ヲ行二十町許ニシテ峯ヲ掘破シ趾アリ。堀切ト云。峯ヲ下リテ相州ニ入。少シ平地アリ。信玄平ト云。是ヨリ相州世附村ニ下ル云々トモ見エタリ〉。(略)」
国立国会図書館デジタルコレクション
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763967
コマ番号287~290

 

後半、『甲斐国史』からの引用になっているのですが、「嶺上ヲ東ニ行キ廿町」が、「嶺上ヲ行二十町許」となっていて、「東ニ」がなくなってますね。。。こちらの記述だけ見れば、矛盾がなくなってる。
もしかしたら、『相模国風土記稿』では、現地をあらたに調査して、『甲斐国史』を引用するにあたって、矛盾が出ないように記述した?

ちなみに『甲斐国史』の完成は文化11(1814)年。『相模国風土記稿』は天保12(1841)年。この天保12(1841)年から、甲斐(平野村)と相模(世附村)の間で、国境紛争が始まっています(決着がついたのは弘化4年(1847)年)。紛争にあたってこの周辺の調査が行われたようですし、『甲斐国史』も参考にされたはず。甲斐側が国境はどこであると捉えていたのか、まさにその記述があるわけですからね。国境紛争の始まった年と、『相模国風土記稿』の完成年が同じなのは、ちょっと気になるところです。。。

とりあえず、『甲斐国史』の「東ニ」は間違いだとして、現・城ヶ尾峠をサカセ峠と考えて、話を進めます。
城ヶ尾根は特に信玄平の下はなだらかで広く、馬でも十分通行できただろうなと思える尾根です。現在の登山道は、城ヶ尾峠からまず西側にある城ヶ尾山の山腹をトラバースし、尾根上に出てしばらく進むと、現在信玄平とされているところに出ます(昔の峠越えの道はどこもこのような経路どりをしていることが多く、現在の登山道と古道が大体同じルートであろうと予想できます。ちなみに今はトラバース部分で崩壊して登山道としては通行止め)。信玄平とされている箇所は、尾根上の道と、奥野歩道、白石歩道の十字路になっています(これらの道がいつごろからあったものなのかはわかりません。現・信玄平は尾根上の平場ですが、正直軍勢が滞在できるほど広くはないし、水を用意するのも大変そう)。
方向はともかく、どちらの文献でも峠から堀切まで約二十町となっていますが、実際には峠から現・信玄平まで1km程度です。
さらに、まず堀切があり、そのあと峯を下って相州に入り、そこに信玄平があるという記述は、現在の地形と考え合わせると、かなり違和感がある。尾根の途中にある場所を、「峯ヲ下リテ」と表現するでしょうか。信玄平から北、ちょっとした登りになりますが(1084峰)、「峯ヲ下リテ」というほどのピークではありません。それをいうなら、尾根はずっと下ってるのだし。
信玄平が国境というのもちょっと変かも? 尾根の途中、特にはっきりとした目印のない場所に国境があったことになってしまいます。普通、国境は稜線、尾根、沢などの地形的に境界となるような線をなぞるものではないか。
現在の登山道では、峠から約2.5km尾根を下ったあと、東に斜面をジグザクに沢まで降りて、地蔵平に着きます。
普通に文献を読んで辿っていくならば、地蔵平がすなわち信玄平であると考えるのが自然ではないでしょうか。「峯ヲ下リテ」は「沢まで下りて」と解釈するのが自然。軍勢のような多人数が宿陣するには、地蔵平のような沢沿いで水もすぐ手に入り、広い平地こそが適当でしょう。地蔵平の集落が信玄がきっかけでできたのか、もっと昔からあるのかはわかりませんが、昭和まで信玄の書状を保管していた家もあったそうです。

いずれにせよ、尾根上に「堀切」といわれたところがあったはずなのですが、そういうものを思わせるものは現在では残っていないようです(自分は気づかなかった)。
ちなみに、地蔵平から尾根上に登らず、城ヶ尾根東側山腹をトラバースする道のあとが現在でも残っています。ところどころ古い石垣も残っていて、山仕事の作業道とは思えないのですが、しばらく行くと崩壊して消えてなくなってしまうので、どこまで続いていたかはわかりません。昔の峠道は、尾根上ではなく山腹を切って行くことも多いことを考えると、こちらが昔のサカセ古道のあとと考えることもできるかもしれません。

 

城ヶ尾(根)の西側の沢は白水沢といいますが、実際に水が白い(流れたあとが白くなっている)沢です。信玄が宿陣した際にお米を大量にといだので白くなったという言い伝えがあります。
鉱物的には黄銅鉱が多く見られ、なんとなく南の世附川沿いの峯坂沢(やはり白い沢で粒子状の黄銅鉱・黄鉄鉱が多い)を思い起こします。ただ、白水沢の黄銅鉱は粒子状ばかりではなく、かなり粗粒。これは丹沢層の南北の差の特徴といっていいのかな。
さらに白水沢の西隣の沢は白石沢といいます。白石沢といえば、加入道山のスカルンの白石沢を思い出しますよね。。。
以前書いた水晶沢も含め、信玄はこの周辺にかなり興味を持っていたのかも?(鉱物的な意味で)。

ところで、現・信玄平から奥野歩道が東に分岐しており、水晶沢などを通過して相州の大滝峠まで通じています。大滝峠から山を下れば、中川温泉近くに着きます。
信玄平から東の赤沢(ほんとに赤い岩が目立つ沢)に下りるのに便利じゃん! と思ってちょっと歩いてみたことがあるんですが、もう「ルート」とはいえませんね、ここ。まじで死ぬかと思った。昔は東海自然歩道として立派な登山道だったのかな。。。もう二度と行きたくないw

 

追記(2021/10/31)
ところで『相模国風土記稿』中川村の項には、土人の伝として、新田義興は中川村に城郭を置いていたが保ち続けられず、当村の奥帚沢より山越して甲斐に逃げたとあります。だとすると、サカセ道ではなく、大滝峠を越したのかもしれません。大滝沢を通って大滝峠をこえる道も古く、地蔵平に抜けることができます(『相模国風土記稿』に記述のある中川村北寄りにある大嶽沢というのが、大滝沢のことではないか。ワリ沢という枝沢〈複数あるらしい〉に大岳橋というのがあったようですが、詳細は不明。『風土記稿』世附村の項に南方にある大嶽というのも出てきますが、これは別の山のことかな?)。大滝沢中流域の、現在一軒家避難小屋のあるあたりは、赤軍派の隠れ家があって爆弾作ってたところですが、もともと以前は集落があって、昭和初期にはここの子どもたちは山を越えて地蔵平の分校に通っていたそうな。

いずれにせよ、今では神奈川の奥地で登山者しかいかないような奥地ですが、昔は割と行き来があったのかもしれませんね。

 

追記(2021/11/04)
大又沢上流辺の尾根を登ると気づくのが、ほとんどの尾根の途中に、必ずといっていいほどとてもなだらかで広いところがあることです。場所によってはテント数百張りもできそうな平場が広がっています。地形図を見ると、最上流部付近では標高1000から1100m、大滝橋付近では900から1000m、地蔵平周辺では800から900mあたりと、南に行くほどその平場の標高が下がっているのがわかります。現・信玄平もその平場のひとつですね。沢から急な傾斜で登り、なだらかな平場が続いたあと、また急に傾斜が強くなって稜線にたどり着く。まあ尾根ではよくあるパターンですが、この周辺の平場は特に広くてなだらかで気持ち良いので、とても印象的なのです。
多分昔は、この辺一帯、なだらかに南に傾いた広い高原が広がっていたのだと思います。そこを幾本もの沢が浸食して深い谷を作り、それぞれの尾根上には高原の名残であるなだらかな平場が残ったのが現在の姿なのでしょう。
丹沢の南の足柄山地周辺は、もともとプレート境界の深い海溝であったのが、200万年くらいのうちに、主に丹沢からの土砂で急速に埋まり、その堆積層の厚みは5000メートル以上にもなります。これらの膨大な土砂の産出地のひとつがこの大又沢です。
地蔵平の集落は、関東大震災時の山津波で壊滅しました(残ったのは今もある山の神さまのお社だけだったとか)。ここの気持ち良い平地を作ったのも壊すのも、この土砂です。隆起と侵食のダイナミクスを直に感じることのできる場所ですね。

 

(参考サイト:山の子yk =世附山あれこれ=

 

« 沸石(千葉県南房総市平久里川流域)2 | トップページ | コバルト華?(山梨県北杜市増富鉱山) »

○山梨県」カテゴリの記事

▽珪酸塩鉱物」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 沸石(千葉県南房総市平久里川流域)2 | トップページ | コバルト華?(山梨県北杜市増富鉱山) »